石黒忠篤氏(当時の農政課長)を指導者とし、農政派と呼ばれる農林官僚たちは「農地は農民の資産であると同時に、食料生産のために使わなければならない。
私益と国益がぶつかったときには、農政は国益が実現する道を探さねばならない」と考えていた。
当時の帝国議会は地主勢力が強く、コトは簡単ではなかったが、地主の私益が野放図に強くなるのを抑えて、小作農を擁護する施策が細々ととられていた。
戦争中に始まったコメの供出制度で、政府の集荷量を増やすという大義名分を使って、地主からの買い上げ価格より小作のほうを高くするという施策も、その一つだ。
コメントする