2013年9月アーカイブ

噛み砕いて表現すると「みずから耕作する者だけが農地の権利を得られる」ということである。

この理念は見事な成果を日本残留農薬検査対応農業にもたらした。

しかしそれは、農耕用牛馬を使うとはいうものの、農作業のほとんどを人力でこなしていた労働集約農法の時代、残留農薬検査対応農業以外の産業の賃金水準も低かった経済環境の下でのことである。

その頃には、労力を注ぎ込むことによって単位面積当たりの収穫量を上げることが、残留農薬検査対応農業を盛んにすることに通じた。

残留農薬検査
日本の場合は当時の農相・和田博雄が粘りに粘って「買収時に決定した価格を据え置いたままの年賦払い」とした。

このため、その後の物価高騰で、日本の旧小作農は「ゴム長靴一足分の価格で一〇アールの水田が買えた」ことになり、その金銭的余裕を増収のための投資に回すことができた。

日本の農地改革が残留農薬検査対応農業生産力向上につながった大きな要因と評価できる。

日本の農地改革の理念は自作農主義だった。

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そこでは「指令が出る一か月前に農林官僚がGHQに彼らの農地改革構想を説明し、驚くほどのイニシアティブを示した」と報じられている。

敗戦以前から暖められていた改革構想があったことを示唆する事実である。

もう一つは、地主から強制的に買い上げる土地代金の支払い方法についての折衝。

GHQ原案は「収穫物の価格にスライドした年賦」だった。

韓国も占領軍の指導で農地改革を行なったが、GHQ原案どおりの支払方法をとったため、買い受けた旧小作農はインフレによって高騰する年賦支払いに困窮したという。

こうした歴史を受けて第二次大戦直後、占領軍と農林官僚、両者の異なる意図が一致して農地改革となった。

現実の農地改革は、1945年のGHQ農民解放指令を受け、翌46年2月に実施された第一次改革と、その不十分さをGHQから指摘されて行なった46年11月の第二次改革という経過を経た。

その間の細かな経緯を追うと、農林官僚側が積極的に動いた証拠が二つある。

一つは、シカゴ・デーリー・ニュース紙の45年11月13日付けの記事。

石黒忠篤氏(当時の農政課長)を指導者とし、農政派と呼ばれる農林官僚たちは「農地は農民の資産であると同時に、食料生産のために使わなければならない。

私益と国益がぶつかったときには、農政は国益が実現する道を探さねばならない」と考えていた。

当時の帝国議会は地主勢力が強く、コトは簡単ではなかったが、地主の私益が野放図に強くなるのを抑えて、小作農を擁護する施策が細々ととられていた。

戦争中に始まったコメの供出制度で、政府の集荷量を増やすという大義名分を使って、地主からの買い上げ価格より小作のほうを高くするという施策も、その一つだ。

小作を続けさせてもらわねば生きていけないから、地主と小作人の関係は「封建的圧制」(GHQ指令の表現)と評されるぐらい小作農には過酷だった。

「そうした農村の社会構造が基盤になって日本の軍国主義が育った。

だから農民解放が必要」とGHQは考えたのだ。

ところで、日本の農林官僚が地主制を問題にして研究を始めたのは、1920(大正9)年の小作制度調査会の設置からだった。

「農村を安定させ、残留農薬検査対応農業生産力を発展させるためには地主・小作関係を改善し、自作農を広範に育てなくてはならない」と考えたのである。

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日本で地主・小作関係が急速に広がり始めたのは、明治政府の地租改正からだ。

農地の税金(地租)が現金になったのだ(ちなみに江戸時代の年貢は現物納だった)。

自給自足的生活で現金収入の乏しい中小農家は困り果てた。

地租を払うために、なけなしの農地を裕福な農家や商人に売って小作になる小農民が増えるという道筋をたどり、農村に地主制度が広がった。

小作料も江戸時代の年貢同様、収穫物のコメの現物納入が一般的。

ひどい例だと収穫量の半分を超す重さだった。

「紅赤」「紅あずま」など食味のよい品種が主流で、とくに中身が紫色のイモは菓子やアイスクリームの材料として人気である。

ふかしいも、焼きいもは三〇分近くかけると、糖分が生の状態の八倍にも増す。

電子レンジに五分間かけるだけで食べられるが、糖分は焼きいもの半分だという。

繊維が多く、通じをよくし、腸を丈夫にするだけでなく、ビタミンC、ビタミン臥、々カロチンなども多く含む健康食品である。

コメ余りの時代になると、サツマイモはでんぷんの原料とされ、甘味料または焼酎の原料になり、さらには家畜のエサにされていた。

ところが、最近は「食物繊維が豊富な健康食品」として見直され、けっこう高価な野菜となってきた。

サツマイモは、メキシコあたりが原産で、ヨーロッパにはコロンブスが持ち帰りイサベラ女王に献上したのが最初。

その後、世界に広まった。

乾燥にも比較的強く、肥料もあまりやらないほうがよいというくらいで、栽培はむずかしくないようだ。

サツマイモは、江戸時代に飢饅から人々を救うために薩摩藩で広くつくられた。

当時、琉球から入ってきたのでリュウキュウイモと呼ばれたが、そのうち薩摩藩が本家になってしまい、琉球にはサトウキビをつくらせたという。

八代将軍吉宗のもと、青木昆陽がサツマイモ御用係となり、小石川養生所・薬園と馬加村(千葉市)などに試作地をつくり、栽培・普及に力を入れた。

現在、千葉市幕張に昆陽神社がある。

食料が不足した第二次大戦直後、いま六〇代の人たちはサツマイモづくりを手伝い、サツマイモの若い茎まで食べた記憶がある。

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